僕とラジオ(その1)

 移動の多い生活とITのおかげで、全国のラジオ番組を聴けるようになって、ちょくちょくかけている。一言で感想を言うと、ラジオは元気だ。
 僕のラジオの恩人は、まずSTVのTディレクター。「BIrthday Suitのアタックヤング」は2人パーソナリティーだったが、僕らはミュージシャンで吉本芸人型のしゃべくりが出来ないので、番組の方向性を出す為にずいぶんと話し合った。収録がすべて終わった後でダメ出しが出て、仕切り直し、録り直しということも数回。ただ、この50分間を1年間続けたことで、今でも多くの北海道の元リスナーが僕らのことを覚えていてくれ、ライブにも足を運んでくれる。「Birthday Suitとバスで寿都に行こう」という幻の企画があったのだが、いつの日か実現して欲しい、とついこの間もあるリスナーから言われた。(バスで寿都、というのは単なる駄洒落です、ハイ)こんな繋がりが続いているのもすべて、T氏と僕らが妥協せずラジオを作った結果だと自負しているし、T氏には足を向けて寝られない。あんなに“熱い”ディレクターが、今日本に何人いるだろう?
 その後ソロに戻り、札幌在住となって(そうそう、アタックヤングは東京ー札幌日帰りで収録していたのだった! 毎週の飛行機とんぼ返り。2本録りはほとんどなかった……)閑話休題。2007年からSTVで短い番組を持たせてもらったときのHディレクターは、“熱い”というよりも“温かい”人物。小さな番組だったけれど「アナログザウルス」は2年半続いて、アタヤン時代のリスナーとの再会あり、新しい出会いありというこれまた有意義な時間だった。番組に届いた手紙を通じて、その方の実体験を元に「虹の橋」という歌が書けたことも、僕の中でエポックメイキングな出来事だった。彼女と、彼女の歌についてはまたあらためて書こうと思う。STVは予算削減で厳しい時期だったけれど、ギリギリ頑張って番組の命脈を保たせてくれたH氏の苦労は並大抵ではなかったはず。テレビの報道に異動した彼からは今でも、ライブ会場に花が届く。
 そんなわけで、STVラジオはまさに僕の古巣なのだけれど、冒頭に書いたように全国のラジオ番組と並列に聴き比べると、ややパワーダウンしている気がしなくもない。STVが大好きだから「変わらず愛される為に自ら変わる」努力をして欲しいと願っている。もし、僕で力になれるなら、いつでも駆け付ける。
……まあ、「間に合ってます」と言われちゃうかも知れないけれど。

  • 2013年09月21日(土)10時53分

シンガーソングライター、西へ(その2)



 そんなわけで、ずっとひとりで歌ってきて3年目にもなった頃。
田辺モットというベーシストが、札幌へ帰った僕と同じように故郷・京都へと拠点を移したと風の噂に聞いた。前述のように、α-stationのレギュラーをしていた関係で、僕も京都には若干の地の利がある。久々に西へ足を向けてみようとモットさんに電話して、とんとん拍子で京都LiveSpotRAGでのソロライブが決まった。RAGはどちらかというとジャズ、フュージョン系のハコで、僕はBirthday Suit時代の出演はなく、むしろお客として飲みに行っていた側。なのにマネージャーの秋葉氏は僕のことを覚えていてくれ、初のソロライブからとてもよくして頂いた。基本、ギターとピアノの弾き語りで、数曲モットさんのベースが絡むという構成。彼はリハーサルしなかった曲でも、ひょいとステージに上がってきてベースを弾いたりと、京都ではとても自由にやっているようだった。東京を離れた2人のミュージシャン。それは「お仕事」ではないミュージシャンの、心から楽しみ、楽しませる演奏だった気がする。
 翌年から次第にメンバーは増え、東京からは小田和正F.E.C.B.のギタリストでもある旧友、稲葉政裕が参加してくれるようになった。実は、1988年に僕がはじめてプロとしてバックバンドを持ったときにバンマスをやってくれたのがモットさん。彼の強力な推薦でギターとして迎えたのが、福岡から上京したばかりの稲葉さん、というのが僕らの関係。もうもう四半世紀の付き合い。稲葉さんは、ライブが終わって酔うといつもモットさんのことをほめる。プレイヤーとしてだけでなく、人間としての素晴らしさを。そしていつもこう言う。「まっちゃん、友達っていうのは宝物だよ!」と。
 どれだけギャラを取っていようと、どれだけ過去にヒット曲を持っていようと、そのプロジェクトの人間関係がその後も続くとは限らない。というか僕の場合、大成功したわけでもないのに、かつて一緒に仕事をしたミュージシャンが今もこうして京都まで集ってくれるというのは、なんと幸せなことかと思う。
 ドラムのマーティー・ブレーシーは3月に札幌へ来たとき「まっちゃんは日本語の歌詞を伝えることに集中して、もっともっと大きいフォーク・シンガーになったらいい」と言ってくれた。彼の言うフォークは正しくFolkであるから、そう言ってもらって本当にうれしかった。彼は今までやってきたどのドラマーよりも「言葉の意味」に耳を傾けてバッキングしてくれる。だから、僕は彼がステージで無駄な音を出すのを聴いたことがない。
 キーボードのChiezoも、歌をよく聴いてくれることに関しては同じだ。バンドの中の彼女も素晴らしいけれど、僕はギターとピアノふたりだけでプレイするときの彼女の繊細なバッキングが大好きだ。僕の読みにくい譜面をメンバーに向けて翻訳してくれることにも、とても感謝している。
 昨年からは稲葉さんの紹介で、神戸在住の久保健太君という若武者もステージに上がってきてくれた。僕もまだまだ若造のつもりなのだけれど、彼のフレッシュなプレイを聴いていると初心に帰るようなところもある。そう、今の彼の年の頃に、僕はモットさん稲葉さんと出会ったのだ。
 ミュージシャンシップと言う言葉は’’Ship’’……「船」という言葉を含んでいる。ずっと一人で歌ってきたような気がしていても、昔同じ船に乗り、また新しい航海を共に出来る仲間がいることは、なんて素晴らしいんだろう。
 友達って、本当に宝物だ。

  • 2013年09月19日(木)08時29分

シンガーソングライター、西へ(その1)

Birthday Suitというユニットをやっていた。
1993年から1999年まで。相方の佐木伸誘と、ギターをぶら下げて北は釧路から南は熊本まで出かけていった。大小取り混ぜ、年間100本ぐらいはライブをやっていたと思う。後半の数年間はドラム、ベース、キーボードのメンバーをパーマネントで加え、レコーディングもライブもバンドスタイルでやっていた。
そして、1999年に、ひとりのステージがはじまった。
もともとがソロでのデビューだったので、原点に戻っただけ。そう自分に言い聞かせるのだが、正直に告白すると最初はとても心細かった。アイコンタクトをとるバンドメンバーがいない。互いにカバーしあう相方がいない。ひとりでステージ中央に立つと、なんだか支えを失って後ろに倒れてしまいそうな心持ちだった。リハと本番の間、お茶しようにも食事を摂ろうにもひとり。失ってはじめて、しみじみバンドとはいいものだなあ、と思ったり。
 ところがソロ曲がどんどん書けてきてライブを重ねるうちに、少しずつ「ひとりだからできること」が判ってきた。なんといっても「お客さんとサシで勝負している」実感が心地よかった。反応を見ながら大幅に曲順や曲間をいじっていく。演奏自体のテンポやニュアンスもどんどん変わる。予定になかった曲や、客席からのリクエスト曲を挿入したりしながら、一期一会の夜が過ぎていく。これはこれでスリリングで、気まぐれな自分の性格に合っている。2007年に出会ったJackson Browneの’’Solo Acoustic’’というアルバムが道を示してくれたことも大きかった。ギター1本でも、小さな心の震えを大きな会場の一体感へと変えていくことが出来る。今はそれが楽しい。
 ライブ当日。お昼になるとギターの弦を変え、スタジオ部屋を出て、近所の川べりのジョギングコースまで出かけて行く。そこでギターケースを開け、新曲を歌ってみたり、ステージの流れに沿って軽く通しリハーサルをする。そんな小一時間を過ごした後部屋に戻り、シャワーを浴び、着替えて出かける支度をする。このときにも、決まっている曲順はあくまで仮のもの。会場について、前後の出演者や客席の雰囲気を感じ、あとはその夜の自分と、音楽の神様にすべてを委ねる。ちなみにリハーサル時間も異常に短い。立ち位置を決め、1曲歌ってバランスにリクエストを出す。どのライブハウスでもリハが20分を超えることはない。
♪ 弾き語りぃ〜気楽な稼業とぉ〜来たも〜んだ……(その2へ続く)

  • 2013年09月15日(日)06時46分

寄席とライブハウス

 ライブハウスは、ワンマンか自主企画だけ、と決めている。小屋がブッキングする、いわゆる「対バン」には嫌気がさした。アコースティック系の小屋は買い手市場。「出して下さい」という個人やグループが掃いて捨てるほどいる。彼らはノルマのチケットを友人に売りさばき、客のほうもチケットを買わされた友人の出番にしか興味はない。そんな学芸会に混じるのは、金輪際ご免被りてぇ。
僕が20才そこそこだったら、そういったアウェイのステージでこそ熱唱して自分を認めさせようとしたのだろうが、熱唱すれば聴いてくれる、良いステージなら観てくれる、というほど、昨今の「大きなお友だち」は甘くないのだ。いつから観客は、こんなに幼稚になってしまったのだろう? いつから著名ライブハウスほど、怠惰なブッキングをするようになってしまったのだろう?
 
 寄席はいい。前座さんから二つ目、真打ちに至るまで、イロモノの芸人さん、モギリのおばさんから下座(お囃子)さんまで、全員のチームプレーで昼席、夜席が成り立っている。ネタが被らないように、トリが引き立つように。ほとんどの芸人さんは時間オーバーなどすることもない。「自分だけ、今目の前のこの客だけに受ければいい」というものではなく、芸人にとっての「日常」であり「職場」であり「生態系」である寄席が、定常的に、末長くお客様に足を運んで頂く場であり続けるための努力を、当たり前のようにしているのだなあ……と、通しで観ているとよくわかる。今のような落語ブームの時も、閑古鳥が鳴いていたときも、それは続いてきた。
そして、寄席には大人の観客がいる。すべての出演者を固唾を呑んで見守る必要はない。弁当を広げようと、せんべいを齧ろうと構わない。今どき携帯が鳴ってしまうことさえある。でもそうした行為はやんわりと受け止められ、やんわりと制止される。すべてがやんわり。角が立たないように。
それでいいのだ。国連の安全保障理事会ではないのだから、日本人の悪い癖とされる「ことなかれ」の精神が、寄席では前面に出ていいのだ。

鈴本、末廣、浅草、池袋、それぞれの席亭(オーナー)に個性はあるが、芸人が共生しながら育っていく、また円熟していく場であることは変わらない。

そんなオーナーのライブハウスがあったら、ブッキングライブでも出てみたいものだ。誰か、知りませんか?

大人のライブハウスってね、高いカネ取って、まずい料理食わせるって意味じゃないと思うんですよ。

  • 2013年08月11日(日)07時55分

落語とJAZZ

地下のオーディオルームに祝儀袋を隠して国税に刺された馬鹿息子の話ではない。
寄席に通えば通うほど、落語はJAZZに似ていると思う。
端的に言えば、古典があり、その様々な解釈があり、さらに新作がある。
ある噺家は本筋と全く関係のない(ように見える)枕、つまりイントロから「ポン」と話に入る。聴き手は膝を打ちつつ、筋を知っているおなじみの噺を、何度でも繰り返し楽しむことが出来る。
もちろん、まったく意表をつかないストレートな枕もまたよし。
JAZZにも、どれだけイントロをひねってスタンダード曲を「それと気付かれずに」演奏しはじめるか、という知的なゲームがある。リズムで、あるいはコードを振り替えてしまうことで。
意表をつかれる快感と、思ったところに投げ込まれる快感の繰り返し。これがイントロからアウトロまで、出囃子からサゲまで波のように繰り返し、良い演者ほど自由自在に観客を納得させ、また裏切る。
これがポップスだとこうはいかない。ヒット曲を別アレンジで演奏することを、多くのお客様は喜ばない。(それでもやるけどね)
やはり芸として落語と対になるのは、音楽の世界ではJAZZである。

  • 2013年08月07日(水)08時30分

やがて素粒子に還る日の名残に 1-2【引き際】

ー前回に引き続き、過去HPのアーカイブです。初出は2006年6月。


「松っあん、これからどうする?」
 京都α-Stasionでの3時間の生放送を終え、ホテル近くの行きつけの定食屋で遅い夕食をとった後、佐木君が僕に聞いた。一瞬、「もう一軒行こうか?」と誘っているのかと思ったが、木屋町の夜風に吹かれる佐木君の横顔は、そんなのんきなものではなかった。佐木君は「バースディスーツをこの先続けていくのかどうか」を訊ねていたのだ。それは僕にとっては意外な質問だった。
 ファーストアルバム「CLOSET」を送り出した後、僕らはボスである渡辺ミキさんの意向で、テレビ朝日ミュージックという音楽出版社と仕事をしていくことになった。B'z、WANDS、T-BOLAN......。1993年当時、ビーイングが続々と送り出す新人バンドがブレイクする道筋をつけていたのがテレ朝ミュージックだった。曲の出版権を握る見返りとして「ミュージックステーション」への優先的な出演の機会が与えられたのだった。ミキ社長は、そのベルトコンベアーに僕らを乗せることを決めたのだ。
 テレ朝ミュージック側の交渉相手は、吉田というプロデューサーだった。初めての打ち合わせで、吉田は「CLOSET」について、「使えそうな曲は1曲もないね」と切って捨てた。思えば、あのときにテーブルをひっくり返して帰ってくれば、バースディスーツというバンドのその後は大きく変わっていたのだろう。だが、その時の僕は、佐木君と一緒なら、どんなハードルも楽々と跳び越えられる気がしていた。相手の土俵に上がって、オーダー通りの曲を書き、歌い、ブレイクする。それもゲームとして面白いと考えていた。そして、苦闘の日々が始まった。

「これでもか」というほど下世話な曲を書き、持って行ったつもりが、ことごとく吉田からN.G.を出される。彼のダメ出しの言葉は決まって「サビが弱い」。1回聞いたら忘れられなくなるようなキャッチーなサビ。コピーライターが書いたような印象的なフレーズ。吉田が求めていたのはそういうものだった。すでに完成している曲に「サビがないじゃないか。サビを付け加えろ」というオーダーが出ることもあった。約半年に渡ってそんな不毛なやりとりを繰り返し、僕も佐木君もすっかり疲弊してしまった。

「想い出を永遠に変えて」という曲は、そうした妥協の産物だった。あの曲のサビの前半は、僕らが書いたものではない。テレ朝に発注された「プロの」作曲家が作り替えたものだ。だが、それはキャッチーかも知れないが、曲としての美しさが著しく損なわれていた。そこで僕と佐木君がスタジオに入ってさらに練り直し、サビの後半「季節はまた巡るけど 愛してたこと 忘れない」の部分を付け足した。詞にいたっては、最初からプロの作詞家を入れることが決まっていた。大体、「想い出を永遠に変えて」とはどういう意味なのか、何が言いたいのか、さっぱりわからない。そこには「何となく切ない」というムードがあるだけで、メッセージも、言葉としての美しさもない。だが、すっかり疲弊していた僕らは、その複数の作詞家が書き、吉田が気に入った部分をつなぎ合わせた歌詞で「想い出を永遠に変えて」をレコーディングした。
 約束は果たされ、僕らはミュージックステーションに出演した。だが、その効果は僕らや、吉田や、ミキ社長を満足させるものではなかった。オリコン最高位40位。考えてみればわかることだ。その歌詞が何を意味するか、歌っていた僕らがわかっていないのだから、TVを視ている人々に伝わるわけがないのだ。何かが伝わったとすれば、そのメッセージはこうだ。「僕らは妥協を積み重ねても売れたいんです」。
 
 それでもゲームは続けられた。吉田が与えた次の課題は「夏のラブソング」だった。僕らは学習していた。無駄な消耗戦は避けよう。吉田の気に入るような曲を書こう。それはちょうど、銀行強盗に対して人質が必要以上に協力的になったり、恋愛感情を持ったりするのに似ていた。なんとしても生き延びたい、という防御本能がそうさせるのだ。吉田の思うようなシングルで売れたら、アルバムではまた好きなことがやれる。「CLOSET」のようなアルバムがまた作れる。それだけを心の支えに、僕らは曲作りに取り組んだ。今度は割と簡単だった。「夏のラブソング」というテーマが決まっているのだから、そしてビーイングと仕事をしてきた吉田のオーダーなのだから、僕らはTUBEになればいいのだ。あの程度の曲なら、左手でも書ける。  

  そして「渚の片平」という曲が出来た。もちろんタイトルは「片平なぎさ」から頂いた。どうせ詞はプロの作詞家にまかせるのだ。そんな投げやりな気分が、この仮タイトルからは伝わってくる。だが今にして思うのだが、TUBEのパロディーを標榜するのだったら、「渚の片平」のほうが人を食った感じで面白いのではなかったか。「夏の瞳で恋を始めよう」よりも。
 誤算があった。僕らと同じ年にデビューしたCLASSというグループの存在だ。僕らも、そしてスタッフも、同じ男性2人のデュオでもバースディとCLASSではモノが違う、と高をくくっていた。ところが「夏のラブソング」という同じ土俵の上に乗ってみると、詞も曲もアレンジも「プロの」仕事で固められた「夏の日の1993」はとてもTV映えした。同じ回のミュージックステーションに出演していたバースディスーツは、明らかにこの対決で負けてしまった。「夏の日の1993」というタイトルも、何を言いたいのかわからない。だが、テレ朝ミュージックの、吉田の思うように動いて成功を収めたのは彼らの方だった。僕らはセールス的に成功を収められなかったばかりか、「CLOSET」で得たグループのアイデンティティーさえも失った。残ったのは「バースディは売れない」というレコード会社スタッフのあきらめと、誇りを失った2人のミュージシャンだった。
 
「松っあん、これからどうする?」という佐木君の問いかけは、そんな状況を受けてのものだった。彼はソロデビューも東芝EMIで、会社の体質をよく知っていた。デビュー時に金をかけ、大々的に売り出すのは得意だが、アルバムの売り上げが5万枚も行かないアーティストをこつこつと時間をかけてブレイクまで持って行く、育てていく、というのは苦手な会社なのだ。これからは色々な面で風当たりも厳しくなるだろう、というのが彼の見方だった。
「今からなら、ミュージシャンを続けるにしても、何か他の仕事に就くにしても、やり直しがきく」と佐木君は続けた。今、バースディスーツというバンドは「解散」という選択肢を俎上に載せているのだった。

 沈黙があった。木屋町のはずれにある博多ラーメンの店から、むせるような豚骨の臭いが流れてくる。佐木君が新しい煙草に火を点けるのを待って、僕は言った。
「俺は佐木君と、行けるところまで行きたいと思っているよ」。
「そうか。松っあんがそう言うなら」
佐木君はそれしか言わなかった。会話はそれだけで十分だった。バースディスーツという帆が破れかけた船は、それでもあたらしい航海に出ることを決めたのだった。
 
 あのときバースディをやめていたら、僕はまだ30才。多分、スタッフか、作曲家になっていたことだろう。佐木君は、新しいバンドを、もっと早くにスタートさせていただろう。結果としては、バースディスーツは「想い出を永遠に変えて」を超えるヒットを出せないまま2000年に活動を休止した。セールス、という数字だけでみれば、もっと早くに解散した方がおたがいの人生にとってプラスがあったのかも知れない。
 
 それでも、と僕は思う。あのときやめていたら、「君を迎えに行く」のレコーディングで尊敬する鈴木茂さんにスライドギターを弾いてもらうこともなかっただろうし、「CRAZY!」の素晴らしくゴキゲンなセッションも体験できなかっただろう。バースディスーツは「TUBEになれなかったバンド」として、人々の記憶から消えていったことだろう。佐木君との関係も、3年弱の人生の一コマに終わっていたことだろう。
 あなたが、このHPにアクセスして、この文章を読むこともなかっただろう。

 すべて人生の選択が合っていたか間違っていたかなんて、死ぬその瞬間までわからない。「信頼」という歌で書いたように「答えは最後にひとつだけ それでいいから」そういうものだと思う。
 
 中田英寿選手が、29才の若さで引退を決めた。新庄も、今季限りでユニフォームを脱ぐという。そういう潔い散り際に、人々は賞賛を惜しまない。だけど僕は、ボロボロになるまでもがき苦しんで、球団を解雇され、自由契約になっても別の球団のテストを受け直してプロを続けようとする、そういう選手に感情移入してしまうし、自分自身もそうありたいと思う。プライド、とは、汚れることを嫌ってどこかにしまい込んでおくものではなく、どんな風の日にも、泥をかぶりそうな雨の日にも、真っ正面に掲げて前に進んでゆく、ちょうど船の舳先に付けられた女神像のようなものだと思うのだ。

  • 2013年07月08日(月)14時01分

やがて素粒子に還る日の名残に1-1【サザンという学校】

「この人は、種を蒔いているんだ」そう思った。1992年9月12日。“僕ら”は北京中央体育館のステージに立っていた。「いとしのエリー」の最後のシャウトに続いて、「勝手にシンドバッド」のイントロが始まる。日本国内で入念に繰り返されたリハーサルでも一度も試さなかった曲つなぎだ。ドラムのヒロシさんと毛ガニさんがアイコンタクトできっかけを作る。サポートベースの根岸さんが強靱なグルーブを作り出す。ギターの大森さんは満面の笑みだ。小倉さんも大森さんのカッティングに絶妙に合わせたリフを弾きまくり、ブラスセクションが情熱的に盛り上げる。そしてすべてを包み込む原坊の微笑みとピアノプレイ。サポートキーボードの片山さんはハモンドオルガンの音色で彩りを添える。そしてコーラスの僕と前田康美姉さんは声の限り「ラララーララララララー」のフレーズを繰り返す。その時、“僕ら”は確かに「サザンオールスターズ」だった。
 このとき桑田さんが目指していたのは、「ビートルズが来日公演でしたことをサザンが北京でできないか」という途方もないミッションだった。天安門事件の余韻さめやらぬ中国でロックのコンサートをすることがどんなにリスクの大きなことだったか。だが、中期ビートルズを彷彿とさせる傑作アルバム「世に万葉の花が咲くなり」を完成させたバンドは充実していた。そして、桑田さんの視線は、日本文化のルーツである半島、そして大陸に向いていた。もちろん、10億の人口を要する巨大市場に日本のポップ・ロック(このときまだJ-POPという言葉はない)が食い込んでいけるか、というビジネス的な課題もあった。そしてその突撃隊長となれるバンドは、当時、サザンを置いて他にはなかったのだ。バンドに多人数のサポートメンバーを入れ、ステージ機材も照明も日本国内のコンサートと同規模のものを運び込む。スタッフも100人ではきかない人数が入っていたと思う。そしてその「失敗できない」というプレッシャーは、桑田さんを押し潰した。
 ステージ中盤、桑田さんが突然舞台袖に引っ込んでしまった。舞台監督の水津さんとマネージャーの松野さんが何事か相談している。ステージに残ったメンバーには「何とかつないでくれ」という指示が来た。そして僕はいつの間にか、センターマイクの前に立っていた。「Do You Know The Beatles?」僕は観客席に向かって叫んだ。もう一度。「Do You Know The Beatles?」客席に反応があった。「O.K.I Sing The Beatles' Song!」そして僕は「I Saw Her Standing There」を歌った。リハーサルなしの一発勝負だ。なんとか歌い終えるとバンドはブルースセッションに入った。こうなると名うてのミュージシャン揃いの強みが生きる。ヒロシさん、根岸さん、小倉さん、片山さんを残して、他のメンバーは善後策を協議するため、楽屋に戻った。頭からタオルをかぶって、桑田さんが肩で息をしている。「もう少し休ませてくれ、大丈夫だから」そういっている。多分、過呼吸か、パニック・ディスオーダーの発作だ。アミューズの大里会長が心配そうに声をかける。結局、桑田さんと原坊さんを残して全員が一度楽屋を出た。ステージではブルースセッションが続いているが、もう限界だろう。お客さんたちも、何事かが起こっていることを察知し始めているだろう。5分ほどして、原坊が出てきた。「今日のところは、私がお客さんに謝って、帰ってもらいましょう。」そして、短い休憩を挟んで、原坊が観客の前に立った。「今日は桑田が体調不良で、コンサートは中止させて下さい」といった趣旨のことを通訳を通じて話す。「最後に私が歌います」と、これも予定になかった「花咲く旅路」を歌い始めた。そしてその曲が終わると同時に、ステージ下から銀のテープが打ち上げられた。そしてコンサートが終わろうとしたとき、背後から言葉にならない雄叫びを上げながら、男がステージに駆け上がってきた。桑田さんが最後の力を振り絞って戻ってきたのだ。
 「勝手にシンドバッド」の終盤でいつものように客を煽る桑田さんを見ていて、僕は本当に感動した。今回、政治的なメッセージのある曲はなく、ステージはエンターテインメントに徹したものだった。でも「ロックという自由」の感覚は、北京の人々にも伝わっただろう。桑田さんはビートルズからもらった恩を、北京で返したのだ。ロックの神様はそんな桑田さんを見捨てなかったに違いない。
 翌日の公演は、予定通りの演目で無事に、そして大盛況のうちに終了した。ヒロシさんが「こんなに一体感のあるライブはアマチュアの時以来だ」といった。そのあとバンドは凱旋帰国し、30本あまりのコンサートをこなしたけれど、充実感、という意味では、たしかにあの北京の2日間は特別だった。あの場にいられたことを、本当に誇りに思う。
 蛇足になるが、僕はサザンオールスターズのサポートコーラスとして過ごした約1年で、多くのことを学んだ。どんなに大きな会場でも、モニターチェックは入念にすること。そして演奏中は、歌うことと同じくらい、モニター、つまり自分たちが出している音をよく聴くことに集中すること。それから、ライブ終了後のメンバーの行動については詮索しないこと。そして、桑田さんから学んだもっとも大きなこと、それは「自分らしくあれば、それでいい」ということ。桑田さんはバンドを離れればよき夫であり、よき父であり、良識ある社会人だった。僕の、たとえば尾崎豊の生き方にコンプレックスを持ってしまうような考え方は間違いだと示してくれた。筒井社長が言っていたような、アーティストとしての自己演出などは不要なのだと身を以て教えてくれた。
 リハーサルが始まったばかりのある日の休憩時間、桑田さんが僕のところにやってきた。そして言った「松崎君はさ、力を抜いて、軽く歌ったときの声がとってもいいね。ジェームス・テイラーみたいだよ」
その一言で、ソロ時代に僕がこだわっていた歌い方が「力みすぎ」なのだということが素直に理解できた。バースディスーツでの僕のボーカルスタイルは、このときの桑田さんの一言がなければ確立されなかったろうと思う。これから僕はどんなプロデューサーと仕事をしようとも、桑田さんのアドバイスを胸に自分の声に誇りを持って歌うだろう。思えばあの1年間は、僕が本当に自立したアーティストとして世に出るための学校のようなものだった。メンバーの中で一番年下だった僕は、謙虚に多くのことを吸収させてもらうことができた。この場を借りて、桑田さんをはじめサザンのメンバー、サポートメンバーの全員に謝意を表したい。

  • 2013年07月05日(金)11時03分

TD-00028について(その3)

一週間ほど前、谷口楽器にTD-00028を調整してもらおうと電話をかけた。
アコギ売り場につないでもらうと、電話口は''斉藤さん''だった。
23才の僕にこのギターを薦めてくれた''斉藤さん''。
つまり彼女は少なくとも1989年から、ずっとお茶の水の谷口楽器で、アコースティックギター売り場にいるのだ。
こういうのって、すごくうれしくありませんか?
さらにうれしいことに、斉藤さんは僕のこともこのギターのことも、とてもよく覚えていた。ボディ材の構成からピックアップシステムに至るまで。気になる点を告げると「いつでも持ってきて下さいよー!」と、懐かしい声が言った。

ギターケースを開けると、斉藤さんは「わあ、キレイですね〜」と感嘆の声を上げた。
傷だらけで、日焼けした24年モノのギターを「キレイ」と。つまりそれは「ちゃんと使われてきた、ずっと音楽の現場にいた」楽器は「キレイ」という、楽器を商うことに人生を費やしてきた斉藤さんなりの表現なのだと思う。
本当にちょっとした不具合なのだけれど、斉藤さんはこのTD-00028をお店のリペアマンでなく、岐阜県の、K-Yairiの担当者に送りたいとのことだった。

約10日を経て、TD-00028は手元へと帰ってきた。
このギターを24年前に手がけた人物は、今はK-Yairiのマスタービルダーで、高級モデルの担当になっているという。そして今回は、彼自身がこのギターを隅々まで点検してくれたのだと。もちろん、気になっていた点はすっかり解決されていた。
料金が破格に安い(と僕には思えた)ので、せめてリペアしてくれた彼にお礼の葉書を出したい、と申し出ると「いいですよぉそんなこと!」と、斉藤さんはガハハと笑った。
24年前と変わらない、明るい笑い声を背中に聴きながら、僕はお茶の水の通りへと歩き出した。
帰ってギターケースのポケットを開けると、これが出てきた。
幸せな楽器だと思う。


  • 2013年04月25日(木)10時15分

TD-00028について(その2)

で、個人的嗜好から購入したこのギターですが、時はイカ天、バンドブーム。
1990年当時の
「アコギを持ってるヤツはフォーク」
「フォークはダサい」
∴「アコギを持ってるヤツはダサい」
という、いかにもバブル期らしい三段論法によって、ライブなどパブリックには使えなくなってしまったのです。事務所シャチョーの意向ですね。そしてちゃんと反論できなかった僕の力不足...そう、他人のせいにしちゃあいけない。
 それでもこの谷口楽器別注K-Yairi TD-00028 は、健気にも僕に付いてきてくれました。BirthdaySuitをはじめてからは旅が多かったので、ハードケースに入れても軽量、マイク乗りも良いこのギターは、全国を回るプロモーションなど「旅の友」だったわけです。ラジオ生出演で演奏アリ、みたいなスレジュールの時は、割とこの子が一緒でした。そう、「なおさら」という、未レコーディング曲がありますが、この曲はK-MIXの楽屋で、たまたまこのK-Yairiを半音下げチューニングして控室にいたとき、待ち時間の30分ほどで作った曲です。
ジャクソン・ブラウンも言っているように「ノーマルチューニングで良く鳴るギター」「半音下げで鳴るギター」「ドロップDのような変則チューニングに相性の良いギター」など、ギターというのは得手不得手があり、個性豊かなものです。逆に言えば、何でもこなせる万能選手のギターって、ちょっと「可愛げ」に欠ける...などと思ったりもするわけで。
さて、このK-Yairiの000-28コピーモデルは、僕より一足先に北海道へ戻ることになり、弟(彼は堅気ですがミュージシャンでもある)の手に委ねられるのですが、続きはまた明日。それは昨日起こった出来事なのですけれど。

  • 2013年04月24日(水)10時03分

TD-00028について(その1)



この形のギター。000(トリプル・オー)と呼ばれてます。
MTV"Unplugged" でクラプトンが使うようになってからやたら脚光を浴びたのだけれど、
それまではMartinといえば、定番は"D"モデルでした。
生音が大きく、どちらかといえばピックで弾くのに適したのが"D"モデルで、
000-28なんかはフィンガー・ピッカーが使う、マニアックなモデルという
位置づけだった。少なくとも当時の日本では。
ただ、僕のHEROであるエルヴィス・コステロが一時、Santa Cruzという新進メーカーの
000-28タイプを使っており、D系統のギターとは違う繊細な鳴り方に、
いたく感激したわけです。1986年頃の来日ステージあたり。
そんなわけで、アマチュア時代の相棒だったタカミネのエレアコをちょっと脇に置いて、僕は上京するとすぐ、お茶の水へ000-28タイプのギターを物色しに行った。
「谷口楽器」という老舗で、お店の別注モデルであるK-YairiのTD-00028を手に入れたのは、そんな経緯。本物のMartinなんて、買えるような財布の中身じゃなかったし。

でも、そのギターを30年後も手にしているなんて、買ったときには想像もしていなかった。売り場の担当はトンボメガネの似合うお姉さんで、斉藤さんといった。
明日は、このTD-00028がたどった運命について、かいつまんで話そうと思う。

  • 2013年04月23日(火)21時08分